臥薪嘗胆

 

 

 


 本当は然程の間も置いていないはずだったが、鷹乃瞳は横浜の自宅に帰るのも久方振りという気がした。

この短い一ヶ月を某県地返村における危険極まりないドレーガとの戦で費やし、前準備から戦闘終了に至るまで、正に怒涛の如くを彼女と、彼女が所属するPRエージェンシーの一同は経験してきた。緊張と試行錯誤で脳を煮えたぎらせる二十数日。気を抜けば死の招来を隣り合わせて、僅か一日。

 生きた、と瞳は思う。あの一ヶ月で圧倒的に濃密な生を、自分達は経験した。良かれ悪しかれ、これからの人生において重要な位置を占める事件となるに違いない。そういう苛烈な経験だった。しかし、それを十数年後に顧みている自分は想像出来ない、とも思う。怖気で身を震わせる屍累々の凄まじさは、壁にヒビを這わせて穿たれる釘の如くの記憶であり、今しばらくはそれを直視出来そうになかった。

 部屋を片付け言葉少なに夕食の調理を始め、瞳は不図、隣近所の幼馴染を思い出した。

 香車仙輔は幼稚園からの腐れ縁であり、PRエージェンシーの仲間であり、先の戦で互いをアシストした同士である。彼もまたある種の思い入れをもってロジックとの戦いに臨んでいたが、その惨憺たる結果を受けての落胆振りは、見た目は普段然として空元気を発揮しているものの、時折項垂れて頭を抱える様から明らかだった。それは後から提出した社の活動報告の文面にもよく表れていて、書いてある中身はほとんどが自省と恨み言で埋め尽くされるという体たらく。気持ちは分かるが、もうちょっと前向きに気張ってみろよと、それが仙輔の活動報告を読んだ際の率直な感想だ。

 

 よしと呟いて、瞳は鍋の火を落とし、勇ましく腰に両手を当てた。

夕飯の献立は、母が仕事で今日は帰らないにも関らず、鍋物のボルシチである。昔からやっていたように、鍋料理はひと家族分よりも多めに作っておく。別鍋に適量を掬い入れてお裾分けとし、揃いも揃って料理が出来ない隣家族へ持って行くのも、また昔からの決まり事だ。瞳は鍋を両手に心持ち口元を弓なりに和らげ、足取り軽く香車家の門をくぐった。開いていた玄関から声を掛けるも、返事が無い。こういう時は間違いなく別棟の道場に居るのが香車家のお約束であるので、瞳は迷わず其処に向かう。

そうして晩の挨拶を元気良く張り上げた彼女の目に入ったのは、丁度身の丈7尺近い熊が空中片手一本で逆立ちをしている場面だった。正確に言えば、道場主の女が同じく片手一本で、ヒーロースーツ込みの仙輔を宙に放り投げていたのだが。直後派手に地響きを起こしつつ、熊が背中から落下。

 瞳の笑顔が当然ながら硬直。ずるずると這いずりながら、上体を起こそうとする熊の笑顔は必死。そんな仙輔を見下して、左手を背に、右掌を差し出すようにする道場主も、また笑顔。

 香車蒼玲。元中国人。仙輔の実母。香車の道場主にして、近隣最強の妖怪。

「君は本当に弱いな」

 単純かつ心を抉るような台詞を、蒼玲が朗らかに曰く。

「君にはその無様な強化服を許し、私が使うのは右腕一本のみ。ここまでハンディを与えながら、崩の一本も掠らない。私は君に河北踊りを教えた訳ではありません」

 受けて、傲然と仙輔が直立。素早く三体式を組む。跟歩。一瞬で間を詰めて右斜上方から劈拳。コンクリートを粉砕する加減無しの一撃を、蒼玲はあっさり掴み止めた。捻られる前に仙輔の左フックが脇腹目掛けて弧を描く。蒼玲は掴んだ手をひょいと放し、人差し指を軽く拳に押し当てただけで、仙輔の左を遥か下に撥ね退けた。ここで蒼玲の震脚が、仙輔を叩き付けた以上の轟音でもって床を踏み鳴らす。

 熊の鳩尾の下を崩拳が抉り抜き、そのまま蒼玲は右手を高々と掲げてみせた。仙輔の体が勢いまたも宙に持ち上げられる。如何にも無造作に右手を振り抜いて、蒼玲は道場の壁目掛けて仙輔を投擲。激突。昏倒。

身長206cm、体重106kgの大男は、今度こそ大の字に伸びきって意識を途絶させた。かはあ、と大きく息を吐き、蒼玲は軽く礼を取る。して、道場の玄関に向き直り、何も言う事はありません、のまま直立不動の瞳を見て、にこりと笑ってみせたのだ。

「久方に夕食を御一緒しましょうか」

 着ぐるみの襟首を掴み、ずるずると引き摺りながら蒼玲の曰く。

 

「あら、兄さん…まあ、お姉さんではありませんか。どうもお久し振りです」

「こんばんは、兄様と姉様。兄様はまた、母様によく鍛えて頂けたようで」

 と、夕げの仕度も丁度良い頃合に、部活動を終えた香車の姉妹が帰ってきた。大学生の董子、高校生の咲子は、裕福ではないものの躾に厳しい香車家ならではの挨拶を寄越し、服を替えるべく自室に戻って行った。程無くしてダイニングに二人が着席し、都合一つのテーブルを5人が囲む格好となる。

 上座に座らされた瞳は、彼、彼女等と食事をする度に何時も思う。ひょっとすると、自分は言われる程に背が高くはないのかもと。身長173cm。モデル並みと褒められる事度々。しかし香車家の人間達は誰も彼も規格外の長身で、蒼玲、董子、咲子の三人は、揃って仲良く186cm。この場に居ないが、父親は190を越える。仙輔に至っては、恐らく日本人の身長TOP10に入るだろう。あたしゃ子供かい、と呻いてみたいが呻かない。

「これはこれは。きちんとしたお鍋が一品と、傍若無人な惣菜が盛り沢山でありますね」

「おだまりなさい、咲子。一品たりとも残す事まかりなりません。私が作ったものは、栄養だけはあります。修行のように食べなさい」

 と、軽口を叩き合う親子達の卓前には、中央に瞳のボルシチ、囲むようにして失敗した炒飯、失敗した水餃子、失敗した細切り肉とやさいの炒め物等が、威嚇気味に並べられている。5人は揃って手を合わせ、少し遅めの夕食を取り始めた。ボルシチに人気が集中したのは言うまでもない。

「そう言えばおじさんは、また柔術の指導で何処かに出掛けられているのですか?」

 と、瞳が聞く。塩加減を盛大に間違えた炒飯を、脂汗かきつつ掬いながら。頷く蒼玲もまた、崩れ去った水餃子に顔をしかめている。

「ええ。相変わらず一年の大半は家におりません。確かに私も指導に出掛ける事はありますが、それにしてもあの人は家を空け過ぎです」

「もしかして、あまり母さんと顔を合わせたく」

 皆まで言わせず、蒼玲は拳骨を仙輔の額に命中させた。無言で机に突っ伏した仙輔に構わず、大きく溜息をついて蒼玲の曰く。

「まあ、自らの柔術に情熱をお持ちであるのは、よくよく分かりますのでね。戻られた際に、精々私のお相手をして下されば文句はありません」

 お相手というのは、間違いなく組み手の事だろう。瞳は何となく、かつて警察が出動する羽目になった二人の大喧嘩を思い出し、一回だけ背筋を震わせた。今でも思い出せる、半壊した道場。視認不可能な殴り合い。笑いながら見物する幼い姉妹。おろおろする仙輔と警官達。して、取り繕うように言う。

「お二人とも、やっぱり仲が良いんですよ。おじさんとおばさんが互いを信頼し合っているから、こういう生活が長く続けられるんです」

「ええ。信頼と言うよりは、愛し合っておりますので」

 蒼玲は真顔だ。

 咲子がこっそりと瞳に掌を振った。その手の話題は長くなるので触らない方がいいですよ、というジェスチャーだったが、遅い。

「私の郷里に武術交流で来た頃のあの人は、それはもう眉目秀麗で…勿論今でも美男ですが。加えて謙虚で優しく、何より強かったのです。これ程の男に見合う女は自分しかいないし、ならばこのまま日本と中国で分かたれてしまうのは、二人にとって大いなる不幸だと私が思うのも、それはそれで当然の話であった訳でして、恥ずかしながら結婚は私の方から申し出たのですが、その際少しばかり悶着がありまして」

「どうされたのですか、兄さん。あまり元気が無いように見受けますが」

 絶妙に、と言うよりは露骨に、董子が間に割って入った。対して仙輔が額を擦りながら曰く。

「お前、さっきオレがド突かれたとこを見てなかったのか」

「いえ、そうではなく。少々お顔がやつれておいでのようでしたので」

「それで、仙輔」

 何時の間にか、夢見るような顔から表情を消した蒼玲が、背筋を伸ばして仙輔を見据える。

「どうでありましたか、此度の戦は」

 蒼玲が言った直後、董子と咲子が手を合わせて起立した。

「それでは失礼致します。お姉さん、また中華街に連れて行って下さいね」

「いいわよ。また咲ちゃんと一緒に三人で行こうか?」

「ふふ。姉様と私達が三人で並んで、周りの人を驚かすのも面白いですしね」

「咲、悪戯も度が過ぎては駄目ですよ」

 ころころと笑いながら、二人は自室に戻って行った。彼女等の夕食は、まだ残っている。気を利かせたのは明白だが、蒼玲はそれには触れず、仙輔に先を促した。観念したように頭を振り、仙輔が訥々と語ってゆく。

 

 屋敷に入り込んでからの敵は、然程組織立って攻め立てている訳ではない。怪我人を運び出す為の車両が平気で出入りを繰り返している点から見ても、それは明らかだ。が、混沌としているのはむしろ屋敷を守る側で、好き放題に殴り込んで来る敵を散発的に撥ね返すような戦い方が、延々と続いていた。

 このままでは後方への突破も間近い。熊の強化スーツの中で息を荒げ、香車仙輔は頭の中に膨れ上がるその焦燥を無理矢理に抑え込み、改めて社の仲間達の状況を把握した。

前線に自分。後方では相棒の鷹乃瞳が狙撃を担う。更にその後ろでは御子神翔と立花理沙が避難誘導、社長の弓月亮介はその直衛。山鳥崇子とクリス・スカイフィールドは怪我人の治療と移送の為、八面六臂の奮闘振りである。

 大丈夫。オレ達は組織で動けている。そう確信出来れば、仙輔が焦る事は無かった。

 体を深く沈め、刀を抜いて現われた新たな三人目掛け、仙輔が駆ける。相手が散り、囲むように動く。しかし狙いを定めるのは一人のみ。振り下ろされた刀を寸でで見切り、相手の腕ごと右で巻き取って左の肘を懐に叩き込む。その間に残りの二人が距離を詰めて刀を突き立てようとするも、内一人が乾いた音と共に上体を派手に仰け反らせ、あっけなく吹き飛んだ。

 同時に背後から異様な気配が満ち満ちる。鷹乃瞳がモーゼルを使ったからだ。彼女の狙撃異能は周囲の注意を集中させてしまう、狙撃手としては致命的な副産物を発揮するのだが、彼女はそれを上手く使い、自らを囮とするような芸当をやってのけていた。

 都合残った一人も大きく気を削がされ、その隙を仙輔は見逃さず、掌呈で顎を撃ち上げる。上向いた顔面を鷲掴み、足払いをかけて体を浮かし、そのまま頭を地面に衝突。今の一撃で間違いなく相手の頭骨と脳は粉砕された。惨いやり方だが、無差別殺戮をやりに来た連中相手に配慮するような甘さは、今の仙輔には無い。

 ゆらりと体を持ち直した仙輔の後ろで、瞳がモーゼルM712を持つ右手を左甲の上に置いて構えた格好のまま、ゆっくりと横歩きを始めた。一歩、二歩と次第に足を早め、それに合わせて仙輔も、野生動物然とした這うような動きで位置を合わせる。そして全速力で駆け出した瞳がM712を連射し、その様に引き寄せられる敵目掛けて、仙輔が一気に襲い掛かる。

そのシンプルかつ効果的な戦法を繰り返し、二人は何とか場を持ちこたえていた。が、それも何時まで続くのだろうと、仙輔は不図ロジック・グレイを思った。一人で戦局を引っ繰り返すだろう実力を持つあのドレーガは、何を考えているのかホリィ・エヴァグリーンと対峙したまま、全く積極的に動いて来ない。ホリィ自ら投降を決断し、精神的に自分に屈服するのを待っているのだとしたら、随分ふざけた話だと憤りたくもなる。同時に、これだけの襲撃をそんな個人的思惑で御しているのだとしたら、底無しに恐ろしい。

彼との直接戦闘は断固避けようというのが瞳との約束事だったが、もしあの男が猛威を振るい始めたら、一体誰が彼を止められるのだろう。仙輔はロジックの姿を確認しておこうと視線を回した。そして足を止めてしまった。

 仙輔、と金切る声が耳を打ったと同時、強化スーツが体を半回転させて大地にもんどり打った。敵の銃弾が数発直撃。スーツが体への到達を防いでくれるも、胸に撃ち込まれた9mmパラの威力は伊達ではない。突如の強圧迫で呼吸不能。仙輔がのたうつままであったなら、そのまま距離を詰められて刺し殺されでもしただろう。背後から弾を撒き散らしながら、瞳が傍に滑り込んでこなければ。

 あっと言う間に撃ち尽くし、もう一丁を取り出し、引き金を絞り続ける。これも弾切れ。弾倉を交換。その大きな隙を突いて斬り込んで来た剣士を、仙輔がうつ伏せた格好のまま右足を蹴り上げて弾き飛ばす。そして寄せ手はその剣士だけではなかった。男が一人、仙輔と瞳には目もくれず隣を走って行く。遂に防御が突破された。後ろに居るのは、避難の最中の非戦闘員達。

 この場の阻止を瞳に頼み、よろよろと立ち上がって仙輔が後を追う。待て。ちょっと待ってくれ。何で戦う手段の無い人を殺そうとする。と、ほとんど哀願するような気持ちで仙輔が走り、家屋の壁の脇を抜け、そうして人気の絶えた庭園に居たものは、剣尖から滴る血を振り払う男。地面に転がる頭。背中を綺麗に割られた子供。

 咄嗟男が振り返る。視界一杯に迫ってきた、彼の首に手を伸ばす笑い顔の熊。

 ずうとお茶を啜り、蒼玲は黙って仙輔の吐露に聞き入っていた。語り終えた後も特に表情を変えず、別段感想を語る気配も無い。それは仙輔も同じくで、語ったから、蒼玲に何か言ってもらおうとは考えていないらしい。

茶を飲みながら夕飯の残りに手を伸ばす二人を交互に見、これが親子なのだと瞳は解釈する。蒼玲は彼女なりに子供の心を伺い、対して仙輔は包み隠さずそれを見せる。一点の曇りなく苦しい話を吐けた息子に、惑いの無きを蒼玲は認め、確かに仙輔はそれを証明出来た。ならばもうあの戦いを引き摺る事は無いと、この親子は確認し合ったのだろう。

(結局ボルシチも作り損な訳か)

 それは少々寂しい話であるが。

 これで後顧の憂いを断ったと、瞳は思う。仲間達が一堂に会した防衛戦は、少なくとも自分達の中では決着していた。亮介と理沙、それに崇子は引き続きホリィの行く先に関わり、クリスと翔は岩手へと向かう事になっている。そして自分と仙輔は、ある意味で先の戦いに比肩する、危険な場へと移動する手筈だ。

 アナスタシア。ロシアの鬼神、魔王の拳と揶揄されるドレーガが、日本に到来する。アレクサ、そしてPRエージェンシーの一員としては、日本に根城を築き始めたアナスタシアの目論見を知る必要がある。事と次第によっては、ロジック以上の脅威となる可能性が高い。

「ところで、君達はアナスタシアの元へ赴くのだそうですが」

 仙輔が茶を吹き、瞳は出された月餅を喉に詰まらせた。二人とも、職務内容などは蒼玲には一言も言っていない。では何故知っている、と疑問に思うのは尤もだったが、それは彼女にとって詮無い事である。横浜の華僑達、とりわけロアドで構成される組織と深く通じているらしい彼女にとって、こちらの動向を知るのは難しく無い仕事だろう。或いは社長の亮介がバラしてしまったというのも、充分に考えられる話だが。
「お気をつけて行きなさい。彼女は老練でありますが、同時に少女めいた気性の率直さがあります。好ましい美点であり、それ以上に危険だとも言えましょう」

「もしかして、御存知なのですか。彼女を。アナスタシアを」

 身を乗り出してきた瞳に、蒼玲が頷き返す。

「若い頃に一度だけ。武人の村である私の郷里に戯れで来られました」

「…強かったのですか?」

「底が見えません」

 蒼玲の答えは簡潔で飾り気が無い分、アナスタシアの程をよくよく表している。

「そういう訳で、彼女が何を狙って<赤>達に修行を課そうとするのかは分かりませんが、一つだけ確実であるのは、修行者達を強くするとの考えが本気だという事です。本気の彼女は、厄介ですよ」

「オレ達は大丈夫だろうか」

 と、仙輔が弱気な事を言う。受けて蒼玲は鼻を鳴らし、手を合わせてから箸を置いて立ち上がった。

「先の戦いで得られた経験を未だ発揮出来ないのは、若さ故でありますか? いいでしょう、もう一度鍛え直します。食卓を片付け終えたら、道場に来なさい。本日のカロリーを使い果たして差し上げましょう」

 身を翻してさっと部屋を出て行った蒼玲の後ろで、仙輔がずるずると背もたれからずれ落ちた。苦笑交じりに御愁傷様と肩を叩いてやる瞳にも、廊下の奥からもう一声かかる。

「瞳さんも、アナスタシアに会う前に、拳術の何たるかを体で覚えた方が良いでしょう」

 御愁傷様。

 

<続>

 

 

 

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